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関東坊津会第25回総会

平成22年5月30日、東京都品川区大崎の三州倶楽部で第25回関東坊津会が開催されました。
遠く故郷を離れた坊津出身者112名が集まり、又故郷南さつま市からは市長本坊輝雄氏、市議会議長大原俊博氏、坊津並びに周辺町村の郷土会の代表者が来賓として参集し、約150名程の盛況でした。
森重厚会長の挨拶のあと来賓による故郷の近況の報告、ご挨拶を頂き、鹿児島県東京事務所のスタッフのふるさと納税を訴え、そのあと関東坊津会の活動報告が行われ、関東坊津会の歌を斉唱し、今年の3月で消滅した町内の全ての小学校の校歌がOB、OGにより歌われ総会は終了しました。
そして二部の懇親会に移り、坊津から届いたツケアゲやコガ焼き、カマボコに薩摩白波、坊津などの焼酎と懐かしい坊津の思い出話、そしておはら節などの踊り、そして最後の抽選会で盛り上がり楽しい一時が終了しました。
関東坊津会の役員の方々の尽力により楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました。
第25回関東坊津会の全景。
森会長の挨拶のあと南さつま市本坊輝雄市長の挨拶。
市長は地域が高齢化が進み合併時4万1000人を超えていた人口が4万人を割ってきた苦しい現状で頑張っておられることを力説しておられた。
なかでも「加世田南瓜」は完熟南瓜で糖度が14%もあり日本一美味しいブランド南瓜に成長してきたという嬉しい話題も紹介してくれた。
2010年4月から坊津町内の全ての小学校、中学校は廃校となり坊津学園として小中一貫校の「坊津学園」1校のみとなった。その坊津学園の校章を説明する南さつま市本坊輝雄市長。
本坊市長は、昭和30年、津貫生まれで子どものころ自転車で上野の峠を越えて久志の浜まで泳ぎに行っていたと話しておられた。
市長も大原議長もとてもパワフルな薩摩男児でした。
小学校の校歌の合唱。この写真は久志小学校のOB,OGによる合唱
「太平洋とどろきお ききつつ集う 学び舎は 歴史いみじく そそり立ち、われらが誇り いや高し」なんと卒業して半世紀以上たった母校の校歌を男性パート、女性パートとで分かれて歌っていたのには驚きました。
小中学校同じ校歌でした。
右に盛られたツケ揚げ。
そして左側にカマボコとコガヤキ。
これらは坊津から届いたもの、故郷の甘い味でした。
この日の焼酎は当然薩摩白波と明治蔵謹製のその名も「坊津」。いずれもとても美味しい焼酎です。
関東さつま南の会の8名の皆さん。ハンヤ節、おはら節など披露していただいた。
参加者も参加しておはら節やハンヤ節が踊られた。
この音楽が流れると薩摩人は自然に体が動くようです。
抽選会でドキドキしながら当選を待つ参加者。
この日頂いた麦味噌と「釜だき塩坊津の華」
味噌は南さつま市長が参加者全員に提供していただいたもの。
塩は抽選会に外れた人たちへの景品でした。
この塩はとても美味しく、先日も坊津から送ってもらったばかりでした。
南さつま市役所の封筒に薩摩半島の突端に南さつま市があることが紹介されています。
坊津に住む妹は薩摩半島の「すんくじら市」と言っています。「すみっこ」という意味ですが確かにその通りだ、
社団法人三州倶楽部
三州郷土館の玄関には薩摩の英雄西郷どんの愛した「敬天愛人」(天をうやまい、人を愛すること)の額が。
社団法人三州倶楽部は・薩摩、大隅、日向の三州出身者・縁故者の会員親睦団体である。
・薩隅日三州の伝統・文化
・先人の事績
・史実等の調査研究、会員親睦・初代総裁 島津忠重(島津家30代当主)
・大正7年(1918年)設立(大正3年1月の桜島大爆発」の義援金募集がその始まりという。三州郷土館は東京都品川区上大崎一丁目20番27号目黒駅から7分ほど。
【関東坊津会の様子】
@関東坊津会の事をホームページで知りメールして今回初めて参加させていただいた。歴史のある会で参加者のほとんどが大先輩方で高齢である。参加者は地区ごとに出身がわかるようになっており、県人会等とは異なりかなり濃密な地域集団である。
A総会の出席者名簿には参加者は秋目・今岳地区5名、久志地区13名、清原地区19名、泊地区32名、鳥越・上中坊地区10名、中坊・下浜地区14名、上の坊・坊浜地区15名、栗野地区4名総勢112名が書かれていました。
B市長のあと挨拶された、南さつま市議会議長の大原俊博氏は今春閉校になった坊津の小中学校の閉校式に参加され、久志小学校の閉校式で現在大学生で鹿児島に住む20歳の平尾出身の女性がのスピーチが素晴らしかったとして、南日本新聞の平成22年3月19日の「記者の目」の切抜きと彼女のメッセージの抜粋のコピーを持ってきて配ってくれた。 南さつま市のホームページ
「私は高校を卒業して、少しだけ都会で一人暮らしをしているが、隣に住む人の顔を知りません。洗濯物を取り入れてくれる近所のおばさんもいません。道ですれちがっても挨拶どころが目をあわすこともない。・・日本は変わってしまった。久志だけ時代が変わらず、日本の古き良き時代の人と人の関係が残っています。・・久志を出て行った若い人たちにお願いがあります。どうか久志に帰ってきてください。私たちで新しい久志を作っていきましょう。私たちで絶やしてはいけません。今まで繋がって来たものを次の時代に繋げていきましょう。」(抜粋の要約)と締めくくっている。
若者が愛する故郷の素晴らしさ、未来への希望を切々と語りかけた素晴らしいメッセージである。家に帰って読んでみて目頭が熱くなるほど故郷が懐かしくなった。私達の故郷は素晴らしいところです。

C会場にはカツオ味噌やヨモギ餅(フッの餅)も販売され、坊津各地の風景写真や祭りなどの写真も展示され気に入ったものを頂ける様になっていた。
D南さつま市役所の封筒の中には南日本新聞と市報「みなみさつま」の切り抜きと「最近の坊津だより」には故郷の近況がスクラップされていて、故郷を離れた者にはとてもありがたいものでした。
E「坊津友の会」や観光ボランティア「坊津やまびこ会」の関係者も参加していろんな情報交換をすることができた。坊津町観光案内ガイドのサイト。
Fそれに坊津に「坊津 山岳楽遊会」という山の会があり、坊津から北アルプスや南アルプスに遠征して登っているとの事であった。会員は5名とのこと。どこかの山で偶然巡りあてたら素晴らしい。是非、何時の日か南アルプスか北アルプスでお会いしましょう。
G今岳、秋目地区の参加者は少なく、ただ一人の今岳出身の女性に挨拶に伺ったら、なんと私の叔母と同級生で、お兄様は私の母と同級生だった。なんと家が私の実家の隣でした。家に帰り大阪に住む叔母に早速電話して、同級生にお会いしたこと、撮ってきた写真を送ると伝えたらとてもとても喜んでもらいました。
一週間後、会津の山中での出来事
関東坊津会が開かれた1週間後の6月5日、会津盆地の南西に聳える博士山の山麓のカラムシの里として知られる昭和村の山中ある友人Mr.Yの手作りの丸太小屋のに誘われて出かけた。TOM想舎と呼ばれるMr.Yが5年かかって一人でつ作った小舎
氏とは会津に転勤した時代に同じ会社の郡山で仕事をしておられたのを縁で知り合いになった。氏が鹿児島県大隈町の出身であるとは聞いていたが、今回なんとお父様は坊津町の学校の先生として赴任されており、お姉さまは坊津で生まれて育ったという驚きの事実を聞かされた。世の中、狭いもので今度詳細をお聞きして、関東坊津会の方にお尋ねしてみたいと思っています。間違いなく同級生が沢山いると思います。
Mr.Yは若い頃は白馬や針ノ木岳の山小屋で働き、当時未踏峰であったヒマラヤの6000m級の山の初登頂をするような登山家で、ヒマラヤに登った長谷川恒男氏や加藤保男氏などとも親交があり、長谷川恒男氏がアイガー北壁の登頂に向かう時は白馬の壮行会にも参加し酒の席を同じくしていたとのこと。山男には見えない柔和で物腰の柔らかい紳士である。しかし、氏の登山の語る山の体験は登山が先鋭的であった偉大な時代の山男達の貴重な体験であり、登山を趣味とする私達夫婦にとっては本でしか知らない世界をワクワクしながら聞かせてもらっています。
右の写真のMr.Yが一人で5年かかって手作りした山小屋はTOM想舎はと呼ばれる山小屋で、沢山の仲間たちが集っています。今回も楽しい一時を過ごしてきました。  (2010.6.6会津から帰ってきて加筆)
【その翌日にまたまた驚きの縁が・・加世田高校の片倉輝男先生】
翌日、Mr.Yからのメールで事実が発覚。前日、Mr.Yからの会津の山中で焚き火を囲みながら南薩摩の高校の美術の先生で、現在では島唄研究家であるが、氏はその画家の描く「桜島」の絵のファンであると語っていた。そのときにはピンとこなかったが翌日のメールでその方が「片倉輝男」さんであると書かれていた。なんと片倉輝男氏は私達が加世田高校に在籍していた時の美術の先生で、私も先生の教わり、先生に少しだけ褒められた油絵の静物画を大切に実家に飾っていたことを思い出した。先生は体を壊されて筆をおき、島唄と三味線の研究をされているとのことであった。ネットで検索すると、「片倉輝男の島唄今昔」というサイトがヒットし、そこには蛇味線を手に歌う姿は若い頃の先生の姿があった。昭和38年から49年ごろに加世田高校に在籍した方は思い出して欲しい。美術の片倉先生でした。是非ネットで検索してご覧ください。 (2010.6.8加筆)

2010年5月30日撮影


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