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ホメロスの読む古事記にある故郷の古代神話

私達のふる里、鹿児島は古代神話の舞台である。笠沙町の隣の坊津町に生まれ古事記に出てくるニニギイノミコトとコノハナサクヤヒメの出会いの話は知っていた。しかし、古事記は難しくなかなか全文を読む機会はなかった。2012年帰省に際してロマンスの舞台ではないかといわれる笠沙の宮跡を訪れその厳かさに驚くとともに、今まで理解できなかったことが氷解し、バラバラだった知識が一瞬に繋がっていった。まさに神の啓示があった。そこで、一気にまとめてみた。薩摩の国はニニギイから三代の神々と天皇家の初代とされる神武天皇誕生の舞台だったのである。まさにパワースポットの原点はここにあるのであろう。

HOMERの読む古代神話(天孫降臨から神武天皇誕生まで)

【天孫降臨】

葦原中つ国(あしはらなかつくに:人の住む世界)は神々の住む高天原を追放されたスサノオの息子である大国主(オホナムチ)によりほぼ平定された。高天原の主「アマテラスオオミカミ(天照大神)」は中つ国を治める神として孫のニニギイノミコト(瓊瓊杵尊、瓊々杵尊、邇邇芸命などと表記される:以下ニニギイとする)を遣わした。すなわちニニギイはアマテラスの孫すなわち「天孫」である。

ニニギイは数名のお供の神を従え、国つ神(中つ国の神)であるサルタヒコ(猿田彦)の導きによって筑紫の日向の高千穂の峰におりたった。(サルタヒコは「火の鳥」などでは大きな鼻を持つ導きの神と描かれ、伊勢に猿田彦神社がある。)

【コノハナサクヤヒメとの出会い】

そこでニニギイは「向韓國 眞來通笠紗之御前而 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地」詔而 即ち「ここは朝鮮に向かい、笠沙の御崎にまっすぐに道が通り、朝日が差し、夕日が照るたいへんよい場所である」と仰せになった。そして、そこに宮を建てた。

ある日、ニニギイは「邇邇藝能命 於笠紗御前 遇麗美人 爾問誰女 答白之 大山津見神之女 名神阿多都比賣 亦名謂木花之佐久夜毘賣」、すなわち笠沙の岬で美しい女性と会った。「誰か」と尋ねると国つ神であるオオヤマツミ(大山津見)の娘阿多都比 別の名をコノハナサクヤヒメであった。

ニニギが求婚されると父のオオヤマツミはそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギは醜いイワナガヒメを送り返してコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミは「私が娘二人を一緒に差し上げたのは、イワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギ)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚したので、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と言った。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのであるとされた。

ニニギイはコノハナサクヤヒメを娶り一夜を共にした。すると月が満ちてコノハナサクヤヒメがニニギイに子供を宿したと告げると、ニニギイは「たった一晩だけの契りで妊娠するはずがない国つ神の子ではないのか。」といわれた。

立腹したコノハナサクヤヒメは「この子供たちが神の子であれば火の中でも無事に生まれるはず」と産所を土でふさぎ火を放った。

そこで火の勢いが一番強いときに生まれた子が火照命(ホデリ:これは隼人阿多君の祖である)、次に生まれたのが火須勢理命(ホスセリ)、そして火の勢いが弱くなったときに生まれた子が火遠理命(ホヲリ)、またの名は天津日高日子穂穂手見命(アマツヒコヒコホホデミ)の三柱である。(この末子のホヲリは重要である。)

【海幸彦:山幸彦】

この御子たちは国つ神たちの寄進を受けて鹿児島湾の奥の隼人地方の支配者として兄はホデリは海佐知毘古(すなわち海幸彦)として大小、いろいろな魚を捕り、弟のホヲリは山佐知毘古(すなわち山幸彦)として大小、いろいろな獣を捕っていた。(なぜか二男の存在は以後ない。)

弟のホヲリは兄と猟の道具を取り換えて魚釣りをしてみたかったがなかなか許してくれなかった。やっとのことで釣り竿と弓矢を取りかえると二人とも何も取ることがでず、弟のホヲリは兄の大事な釣り針を魚に取られて失くしてしまった。

どんなに許しを求めても許してもらえなかった。ホヲリが泣き悲しんでいると年老いた塩椎神(シオツチ:塩釜神社)から目の詰まった竹籠で船を作り、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。ホヲリは小舟で加治木を籠の船に乗り出発した。すると小船は魚のうろこの屋根で作られた宮殿についた。ここは海の神大綿津見神(ワタツミ)の宮でホヲリを尊い神の御子と見抜き、宮殿に招き入れ、娘の豊玉毘売命(トヨタマビメ)は一目ぼれし結婚させた。

そしてそこで3年過ごしたがあるときホヲリが嘆き悲しむようになり、トヨタマヒメが尋ねると、失くした兄の釣り針を探しに来たと告げた。

海の神(ワタツミ)は魚たちを呼び寄せ尋ねると赤鯛がのどに何か刺さり苦しんでいるという。調べてみると喉に釣り針が刺さっていた。

 

ワタツミが教えて言うには、「この釣り針をあなたの兄に返すとき、『この釣り針は心がふさぐ釣り針、気持ちが落ち着かない釣り針、貧乏になる釣り針、愚かになる釣り針』ととなえて、後ろ向きに渡しなさい。そして兄が高いところに田を作ったならば、あなたは下に田を作りなさい。そうしたならば、わたしが水を支配していますから三年で必ず兄は貧しくなるでしょう。もしそうなったことを恨んで攻めてきたなら、塩盈珠(シオミツタマ)を出して溺れさせ、もし苦しんで許しを乞うたなら塩乾珠(シホフルタマ)を出して生かしてやり、こうして悩まし、苦しめてやりなさい」と呪術を授けて、塩盈珠と塩乾珠の二つの玉を授けた。そして一尋の大きな鰐(ヒトヒロワニ)に乗せて返した。鰐は一日でホヲリを届けた。御子はその鰐にお礼に持っていた小刀をつけて返した。その一尋鰐は佐比持神(サヒモチ)と呼ばれる神である。

こういうわけでホヲリは海神が教えられたとおりにその釣り針を兄のホデリに返した。そこでそれから後、兄は次第に貧しくなり、さらに時には苛立って攻めてきた。攻めてきたときはワタツミの教えの通り塩盈珠を出して溺れさせ、助けを乞うてきたならば塩乾珠を出して救った。ついに兄のホデリは頭を下げて「私は今より後は、あなたの昼夜の守護人となってお仕えしましょう」と誓った。そこでいまに至るまでホデリの子孫の隼人は、その溺れたときの様な仕草(隼人の舞)をして天皇にお仕えしている。

そして暫くしてワタツミの娘トヨタメビメはホヲリのもとを訪ねてきて「私は身籠っています。出産の時が来ました。天つ神の御子は海で生むべきではないと考えてきました。」といった。

そして姫は海辺の渚に,鵜の羽を葺草にして産屋を作った。しかしその産屋にまだ葺草がふき終わらないのに、おなかの子が産まれそうになった。そこでホヲリに「他国の人は出産の時自分の国の形なって生みます。絶対産所の中を覗かないでください。」と伝えて産所に入った。

しかし、ホヲリは中を覗いてみると八尋の鰐(ヤヒロノワニ)となってのたうち回っていた。ホヲリはこれを見て驚き、恐れ,逃げていった。そしてトヨタマビメは恥ずかしさから産んだ子を置いて海の国との境を閉じてワタツの宮に帰ってしまった。

そこでこの産まれた御子は天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズ)と名付けられた。

しかし、トヨタマビメは夫が恋しくて、子供を養育するため妹の玉依毘売(タマヨリ)に「紅玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり」(赤い玉はその緒まで美しく光るが、それにもまして白玉の様なあなたの姿は貴くうつくしいことでした)という歌を持たせて上がらせた。

そしてホヲリはこれにこたえて「沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに」(鴨が寄りつく島で、私が共寝をした妻を忘れはしない、私の生きているかぎり)と歌われた。

【神武天皇誕生】

古事記には続いて「故 日子穗穗手見命者 坐高千穗宮 伍佰捌拾歳 御陵者 即在其高千穗山之西也」とある。

即ちホヲリは高千穂の宮に五百八十年間おいでになった。そして御陵は高千穂の山の西にある。

そしてウガヤフキアヘズが、その叔母のタマヨリビメを娶り4柱の神を生んだ。

その最後の子が神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコ)である。この子は東に攻め上がり大和を平定し神武天皇となり天皇家の初代とされる。即ち神武天応東征伝説へとつながるのである。

ここからはホメロスが調べた薩摩と神代三御陵について。

このように天皇家の神代の三代は天孫ニニギイが高天原から高千穂に降り立ち、笠沙岬でコノハナサクヤヒメと出会い、ホヲリを生み、ホヲリが竜宮城に行き、帰ってきたて生まれた子が、神武天皇の父君(ウガヤフキアヘズ)でありその末子カムヤマトイハレビコが後の神武天皇ということになる。

【ニニギイノミコト】

高千穂が日向の高千穂か霧島の高千穂の峰か争いがあるがいずれにしろ霧島は薩摩と日向の境にあります。

天孫ニニギイの笠沙の宮は当然南さつま市笠沙にあっただろう。黒瀬海岸は神渡海岸と呼ばれており、黒瀬集落には神渡姓がある。黒瀬海岸の少し先には笠沙の宮跡とされる場所には古代の人が住んだ石組や墓とされるドメインが数基や多数の住居跡がある。

そして笠沙に伝わる古謡には「朝日の本 夕日に影なし ふっがでらの上 白砂の真砂 見ゆることあり」というのがあるという。古事記の天孫降臨の場面に出てくる「朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地」(朝日が差し、夕日が照るたいへんよい場所である)という霊域を暗示するものがあると思うがどうですか。

宮の山の笠沙の宮遺跡はとても空気が凛として厳かな雰囲気のある場所で山の中の京塚のと呼ばれる小ピークでこの記載を見つけた時に身が震える思いがした。我が国の神話の始まりに出てくるほどの間違いなくパワースポットであろう。

その御陵は薩摩川内市にある新田神社の裏山「可愛山陵(えのさんりょう)エノヤマノミササギ」で明治7年7月御陵に指定され宮内庁書陵部桃山墓陵監区、可愛部事務所が管理している。皇霊は「霧島神宮」に祀られている。鹿児島に宮内庁の事務所があるのである。

大正9年3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝、昭和37年・今上天皇(当時の皇太子)及び皇后美智子(当時の皇太子妃)参拝、など皇族の参拝は9回にも及んでいる。

 

【ホオリ】

その子ホヲリは「坐高千穗宮 伍佰捌拾歳」高千穂の宮で580年過ごし、御陵は「即在其高千穗山之西也」溝辺町の空港近くのR504沿い「高屋山上陵(たかやさんじょうりょう)タカヤノヤマノエノミササギ」。明治7年7月御陵に指定され宮内庁書陵部桃山墓陵監区が管理している。なお尚、御皇霊は「鹿児島神宮」に祀られている。

 




【鵜草葺不合命:ウガヤフキアヘズ】

そして神武天応の父君鵜草葺不合命(ウガヤフキアヘズ)と母君「玉依姫」は鹿屋市吾平町の「吾平山上陵(あいらさんじょうりょう)アイラノヤマノエノミササギ」。明治7年7月10日墓陵に指定され宮内庁書陵部桃山墓陵監区が管理している。皇霊(ミタマ)は「鵜戸神宮」に祀られている。

1935年(昭和10年)には昭和天皇が、1962年(昭和37年)には皇太子(今上天皇)・皇太子妃(皇后美智子)が参拝している。

【その他】

開聞神社の宝物は玉手箱である。

長崎鼻には竜宮神社があり、岬の先に竜宮の門といわれる岩の割れ目がある。

枕崎の火の神公園はホヲリが立ち寄ったとされる場所 ナメシ籠の船で旅に出たホヲリがついた場所は別名火の神と付けられ、枕崎市鹿篭はそれに由来するともいわれる。

木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)は金峰町の出身 金の銅像が立っています。

富士山は姫の化身だとされています。

木の花(桜の花、あるいは梅の花)が咲くように美しい女性の意味とするのが通説である。

【編集後記】
管理者のハンドル、HOMER(ホメロス)はギリシャ神話における最大の叙事詩人で、トロイ戦争を描いた『イーリアス』と、智将オデセイヤがトロイ戦争後イケタに帰るまでの10年の苦難を描いた『オデッセイア』を書いたとされている。子供の頃、大正の生まれの父親が少しだけ語ってくれたトロイ戦争と絶世の美女ヘレンの話がその後の管理者のギリシャ神話とかかわりあう縁となった。そして今でも一番の美女はトロイの「ヘレン」であり、一番貞淑な女性はオデッセウスの妻「ペネロペア」と信じて疑わない管理者である。
このようにギリシャ神話をこよなく愛する管理者が故郷のことが書いている古事記をまとめて読むことができずに月日が過ぎた。そこで2012年正月に帰省するのあたり夏から古事記にチャレンジした。しかし、国造りの前段はやたらと細かく、ニニギイの降臨から神武天皇誕生までが故郷鹿児島を舞台としていると考えられるためとても興味深く読み込め、具体的なイメージが浮かんできた。そこで埼玉に帰ってきて一気にまとめたものである。
古事記のこの場面はいろいろと解説されていると思うが、私たちの故郷と具体的に関連付けたものはないと思う。
そしてこのサイトのアップは2月11日建国記念の日におこなった。即ち以前はかつての祝祭日のひとつ、紀元節であった。紀元節は、『日本書紀』が伝える初代天皇である神武天皇即位の日として、1872年(明治5年)に制定された日である。誕生日は紀元前711年2月13日とされている。

2012年(平成24年)2月11日
写真は2015年9月21日撮影


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