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プロローグ「神楽坂」の開始に当たり。

神楽坂というとテレビや数多くの雑誌でもよく取り上げられ専門誌まで出ている東京でも数少ない芸者さんがいて美味しい料亭もある古きよき時代の風情の残る町として紹介されている。

現在の神楽坂は飯田橋駅牛込御門前の外掘り通り沿いの1丁目から始まり大久保通りを越えて東京メトロ東西線神楽坂駅のある6丁目まで約700メートル程の狭い通りである。しかし、昼歩いてみると銀座のように整然ときれいな町並みでお洒落な店があるわけではなく、現在ではむしろ坂の上にある善国寺の門前町として花屋に甘味処・食事処、お茶屋に履物屋それにパチンコ屋やゲームセンターにコンビまで雑然とした下町そのものである。

しかし、この町がここまで東京の街中で特異な存在として脚光を浴びているのはこの町の持つ独特の風情であろう。

まずこの町は坂のある町である。神戸や長崎のように大きな坂の町ではないが大都会東京の中で数少ない坂は町に独特な風情をかもし出している。

この飯田橋駅牛込御門前の外掘り通りから西に伸びる狭い神楽坂は思ったより急であり、江戸時代の地図には上部に階段が描かれており、あまり急な坂のためたびたび事故も起き明治10年ごろに上部を掘り起こして急な坂を少しなだらかにしたのだという。

そして路地である。起伏のある狭い神楽坂の通りと交差する大きな通りは5丁目と6丁目の境にある大久保通りくらいのものであり、あとはとても狭い路地が無数にある。それも半端な狭さではなく一番狭いところでは人一人がやっと通れるほどの路地でそれも真っ直ぐでなく幾重にも折れ曲がって繋がっている。

そして石畳である。この急な神楽坂の石畳は歴史的には試行錯誤の連続であったようであるが、町の人たちの努力によって小さな路地まで石畳が敷かれこの町を他の町とは異なる独特な風情を作り出している。特に夜の石畳は路地の風情を効果的にアップしている。平らな路面でなく路地がつくる影は石畳ならでは効果であろう。

そして歴史であろう。
江戸時代この神楽坂界隈は旗本の屋敷であり町名は付いていない場所であった。

しかし江戸中期の切絵図には牛込御門から延びるこの坂に「カグラザカ」という名が見え、善国寺の前には階段が描かれている。この善国寺は江戸時代の初期麹町にあった「鎮護山善国寺」が移って来たものである。20076月まで麹町にいて麹町ウぉーカー(麹町遊歩人)6年配信し続けた者が縁あって神楽坂の町の中心地が麹町から移ってきたとても何か深い縁を感じる(麹町ウぉーカー102)。

明治時代になると武家屋敷もなり明治の末には花柳界の町として券番、料理屋、置屋、待合などで賑わったようである。そして現在でも券番があり料理屋さんが有り、芸者さんもいる。これがこの町の風情を東京の中でもひときは際立たせる理由であろう。そしてたくさんの文学者などもこの町に住んでいた。そして番町に住んでいて麹町ウぉーカー16号で紹介した泉鏡花と芸者「すず」が暮らし始めた場所はこの町であり文人たちに愛された町でもあった。
それにこの町には外国人の方も多いのも特徴である。

 神楽坂という町の名前は神楽坂通りに面した両脇数100メートルほどの狭い範囲であり路地に少し入っただけで坂の右側には揚場町、津久戸町、筑土八幡町、白金町、赤城元町があり、左側には若宮町、袋町、岩戸町、横寺町、矢来町など沢山の町がある。してそれぞれの町が歴史とともに独特を持っている。

 

これからこのサイトではこの町を以前麹町で行なっていた麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) と同じく、この歴史の宝庫であるこの地を誰もが知っていそうな歴史や、日ごろ見過ごしそうな話題、地域情報まで、とことん拘りながら、この町を愛する住民の目で時代を超えて探して歩こうと思う。
そして不定期であるが少しずつ、見つけた話題をアップしていくのでお楽しみいただきたい。

この日の曲はDEPAPEPE(デパペペ):アルバム「Let's Go!!!」の「Start」を聴きながらのアップでした。


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