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                 「神楽坂の町割と町名の変遷」(1)

「神楽坂」は千代田区北の丸公園の田安門からはじまる早稲田通りのJR飯田橋駅西口牛込御門前の外掘り通り(神楽坂下)から大久保通り交差点(神楽坂上)あたりまでの坂のことで、坂の部分は「神楽坂通り」と称される。

住居表示では外掘り通り側(神楽坂下)から1丁目から始まり大久保通りを越えて東京メトロ東西線神楽坂駅のある6丁目まで約700メートル程の狭い通りである。

神楽坂1丁目は神楽坂下から最初の神楽小路の「紀の善」さんまでのとても狭い区画である。そして神楽小路を越えて神楽坂仲通までが2丁目で、そこから坂を登りきった東京三菱UFJ銀行と向かいの肉まんで有名な「五十番」までが3丁目である。しかし、本多横丁を越えたそれから先の4丁目と5丁目は多少錯綜していている。神楽坂

毘沙門天(善国寺)から先の左側は大久保通りの神楽坂上まで5丁目であるが毘沙門天の向かいの神楽坂郵便局や「煎餅の福屋」、「鳥茶屋本店」、「神楽坂銘茶楽山」さんは4丁目である。神楽坂郵便局の隣の「ampm神楽坂店」から大久保通り交差点の神楽坂上までが5丁目である。そして大久保通りを越えて東京メトロ東西線神楽坂駅までが6丁目である。

とはいえ神楽坂という町の名前は神楽坂通りに面した両脇100メートルほどの狭い範囲であり路地に少し入ると坂の右側は揚場町、津久戸町、筑土八幡町、白金町、赤城元町があり、左側には若宮町、袋町、岩戸町、横寺町、矢来町など沢山の町がある。

江戸時代、この地域は旗本の屋敷が並んでおり町の名前はなかったが、切絵図には善国寺の前に階段が描かれ「カグラザカ」と書かれている。
明治になってもこのあたりはとても急な場所だったらしく明治13年ごろに「車馬荷車並びに人民の往復にも不便を極め、時として危険なことも度々なれば坂上を掘り下げ藁店下寺通り辺り(現在の5丁目)の地形と平面をなし・・」と当時の新聞記事にもあリ、この頃に今のように改修されたとのことである。

神楽坂の由来についてはこの坂の右側に高田穴八幡の旅所(神社の祭礼の神輿渡御に際し、本宮を出た神輿を迎えて仮に奉安する所)があり、神輿が通るときに神楽を奏したとか、若宮八幡の社の神楽の音がこの坂まで聞こえたなど諸説あるもののはっきりしないようである。

ところで「神楽坂」という町名が初めて使われるのは廃藩置県が行なわれた明治3年(1871年)で現在の「神楽坂1丁目から3丁目」までが「牛込神楽坂町1丁目から3丁目」と言う町名で使われ始める。整理すると以下の通りである。 

明治3年(1871年)〜 明治4年(1872年)〜 明治12年(1879年)〜 明治44年(1911年)〜 昭和26年(1951年)〜
牛込神楽町一丁目 . . 神楽町一丁目 神楽坂一丁目
牛込神楽町二丁目 . . 神楽町二丁目 神楽坂二丁目
牛込神楽町三丁目 . . 神楽町三丁目 神楽坂三丁目
宮比町(一部) 上宮比町 牛込上宮比町 上宮比町 神楽坂四丁目
牛込肴町・寺地・武家地 牛込肴町 . 肴町 神楽坂五丁目
牛込通寺町 . . 通寺町 神楽坂六丁目

このように大久保通りを越えて赤城神社の前辺りまでを神楽坂と呼ぶようになったのは戦後昭和26(1951)のことのようである。宮比町、肴町、通寺町それぞれ興味深い歴史があり、ぞれぞれの町の歴史についてはこれから探して、順次紹介していく。

ところで、この昭和26年という年は、13日に第1NHK紅白歌合戦が放送され、96日にはサンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約締結により我が国が独立を回復した年である。

又その前の明治44年は安政5(1858)にアメリカとの間で締結された不平等条約といわれる日米修好通商条約(治外法権と関税自主権の欠如)が外務大臣小村寿太郎によって新日米通商航海条約が調印され日本の関税の自主権が回復した年でもある。

神楽坂の町名が変わる年は何故か我が国にとって重大なことが起きている。

このサイトの第1号は神楽坂の町名とその変遷とについてきて調べてきたが、神楽坂界隈に関して「牛込」という地名も重要である。

この神楽坂界隈は発展する礎は1555年ごろ群馬県赤城山麓の豪族大胡氏が善国寺の裏の高台に牛込城を築いたことに始まる。外掘りに寛永15(1636)に牛込方面の出口として築かれた門は牛込御門と呼ばれていた。そして明治11年(1878年)に牛込区が発足し1889年に東京都牛込区になり、神楽坂も明治3年から「牛込神楽坂町」と正式な町名として使われていた。また現在のJR飯田橋駅は昭和初年までは牛込駅と呼ばれていた。

この「牛込」と「神楽坂」はむしろ一体として「牛込神楽坂」と捉えるほうがこの町を捉えるのに適しているようである。

かってこの町には「ここは牛込神楽坂」(発行人はコピーライターの故立壁正子氏・発行元牛込倶楽部)というタウン誌があった。平成81月に始まり平成13年春の18号をもって終了している。このタウン誌については九段で「九段界隈桜みち」というタウン誌を発行しておられるコピーライターの國分紘子氏に教えていただき、國分氏が編集した立壁氏の追悼誌「立壁正子の仕事」(平成1432日発行 編集立壁正子の仕事を作る会 発行牛込倶楽部)をいただいてその内容の素晴らしさに驚いた。

内容もさることながら、その粋な「ここは牛込神楽坂」というネーミングはこの町を表す言葉としてこれ以上の名前はないであろう。しかしこのネーミングはある意味アンタッチャブルな町の財産であろう。このサイトも、内容的にはいずれは「ここは牛込神楽坂」のようにこの町を愛する人達に支持されるサイトになることを目指して、日々界隈の話題を探して歩きたいと思う。

編集後記(2008.3.13)
先週末金曜日は(2008年3月7日)は神楽坂はとても大変な一日だった。朝10時ごろ神楽坂2丁目の神楽小路の裏で火災が発生し、そして午後4時前、東京理科大学で爆破事故があり消防車が多数集まる騒ぎが発生した。
今日はCeline Dionのアルバム「All The Way..A Decade Of Song」の「To Love You More」を聴きながら・・


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