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                「光照寺(牛込城跡)」(3)

光照寺(牛込城跡)

神楽坂を上り善国寺の前を過ぎ和菓子の「五十鈴」の先を左に曲がる路地はかっては藁を売る店があったところから「わらだな」と呼ばれる場所である。

その路地に沿って上って行く坂は「地蔵坂」と呼ばれる。その先にある光照寺にある子安地蔵に由来すると案内板に書かれている。

その路地を上りきると右前には日本出版クラブ会館が見えてくる。

坂を上りきった場所の左側に光照寺がありその入り口に「牛込城跡」とか書かれた東京都教育委員会の案内板がある。

そこには以下のように書かれている。

 

牛込城跡

新宿区登録史跡
所在地 新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和60年12月6日
光照寺一帯は、戦国時代この地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
堀や城門、城館など城内の構造については記録が無く、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
牛込氏は赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(153255年)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。
天文24(1555)重行の子の勝行は姓を牛込氏と改め、赤坂、桜田、日比谷付近も含めて領有したが、天正18年(1590年)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取り壊される。
現在の光照寺は正保2(1645)に神田から移転してきたものである。
なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」、「便々館湖鯉鮒の墓」などがある。
平成78月 東京都新宿区教育委員会

光照寺の枝垂桜

 

棕櫚(しゅろ)の木などが生える参道を入ると正面に鐘楼堂があり右奥に本堂が建っている。鐘楼堂の裏や本堂の南側に墓が並んでいる。

本堂の両脇には枝垂れ桜が生えており特に左側の枝垂桜が見事である。
神楽坂5丁目から少し路地を入っただけで町名は袋町にになり、高台の上に神楽坂の賑わいが嘘のように空の高い静かな境内である。

このお寺の由来については鐘楼堂に掲げられている説明版に以下の通り詳しく書かれている。


 

鐘楼堂

光照寺は慶長8年(1603年)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺寺町に起立、正保2年(1645年)ここ牛込城跡に移転してきました。光照寺 鐘楼堂

徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開基の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名から由来するものです。

鐘楼堂は明治元年(1868)神仏分離令に伴って各地に起こった廃仏毀釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。

その後、60年の歳月を経て昭和12年(1937年)に復興を見ましたが、昭和20(1945)2次世界大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。

梵鐘(富樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還され永く境内に保存されていましたが、この度の鐘楼堂の新築により復元しました。

平成5年(1993年)1

この寺はこれだけれ歴史を持っているため、仏像なども豊富で、本堂左側に東京都の教育委員会の案内板に説明がある。

木造地蔵菩薩坐像

所在地 新宿区袋町15番地
登録年月日 平成937
寄木造り、黒漆塗り。像高
31センチ。13世紀末(鎌倉時代)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。寺伝によると、この像はもともと近江国三井寺にあり、後宇多天皇の皇后が弘安年間(127888)に、後の後二条天皇を出産する際、難産であったため、この像に祈ったところから「泰産地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺に移され、正徳年間(171116)に増上寺の末寺である光照寺に安置され「安産子育地蔵」として信仰をあつめた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである。

木造十一面観音坐像

登録年月日 平成937
一木造り、白木仕上げ。像高70センチ。18世紀末(江戸時代後期)の作品で作者は木食明満である。
明満(
17181810)は、円空とならび称される像仏聖で、全国を旅して鉈(なた)彫りの仏像を約千体彫ったと伝えられる。新宿区教育委員会 平成95

阿弥陀三尊来迎図

新宿区指定有形文化財 絵画
所在地 新宿区袋町15番地
指定年月日 平成1026
絹本着色、木製の板に貼り付けられた状態で厨子に納められている。
102.2センチ、横39.4センチ(画像寸法)
場面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至の二菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎えるために降りて来る。)様子を描いたもので14世紀後半(室町時代)の作品と推定される。

法然上人画像

新宿区指定有形文化財 絵画指定年月日 平成1026
絹本着色、掛軸装されている。縦89.5センチ、横41.3センチ(画像寸法)
浄土宗の宗祖法然上人の肖像で15世紀後半(室町時代)の作品と推定される。
平成103

このお寺の案内板には「諸国旅人供養碑」と「便々館湖鯉鮒の墓」があると書かれていたが、これらの墓は本堂の奥の壁際の桜の木の前にある。

「諸国旅人供養碑」

供養碑自体は1mほどの古びた石の碑であるがその脇には沢山のお地蔵様が並んでいる。
そこにある案内板には以下の通りある。

諸国旅人供養碑 諸国旅人供養碑 案内板の左隣にある石柱が供養碑

新宿区登録有形文化財 歴史資料
所在地 新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和616月6日
神田松永町の旅籠屋紀伊国屋主人利八が、旅籠屋で病死者の菩提をともらうため、文政8年(1825年)に建立した供養碑である。
はじめは、文政2年(1819年)から建立までの7年間に志望した6名の名が刻まれ供養されたがその後死亡者があるたびに追刻され、安政5年(1858)まで合計49名の俗名と生国が刻まれた。当時は旅先で客死する例が多く、これを示す資料として、また供養塔として貴重なものである。
なお、当初は「紀伊国屋」と記した台座があったが、現在は失われている。
平成78東京都新宿区教育委員会

 

さらに狂言師「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)の墓」は諸国旅人供養碑の斜め右前に建っている。

 

便々館湖鯉鮒の墓 便々館湖鯉鮒の墓

所在地 新宿区袋町15番地
登録年月日 平成232
江戸時代中期の狂言師便々館湖鯉鮒は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延2年(1749)に生まれた。
幕臣で小笠原若狭守支配、禄高150表、牛込山伏町に居住した。
はじめ朱楽菅江門下で狂歌を学び、福隣堂巨立と名乗った。
その後故あって唐衣橘州門下に変わり、世に知られるようになった。大田南畝と親交があり、代表作「三度たく 米さへこはじ やはらかし おもうままには ならぬ世の中」は南畝の筆になる文政2年(1819)建立の狂歌碑が西新宿の常圓寺にあり、区指定文化財に指定されている。
文化15年(181845日没した。享年70歳であった。
墓石は、高さ152センチである。
平成31 東京都新宿区教育委員会

 徳川幕府奥右筆の「大久保北隠」の墓

奥右筆の「大久保北隠」の墓

そしてこの諸国旅人供養碑の向かいに石庭のようにいくつもの石が並べた墓がある。一見して墓には見えない。
これは徳川幕府奥右筆の「大久保北隠」の墓であるといわれる。

奥右筆という肩書きについては聞きなれないが右筆(ゆうひつ)とは、武家の秘書役を行う文官のことで、文章の代筆が本来の職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになったという。徳川時代には一般行政文書の作成・管理を行う既存の「表右筆」と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う「奥右筆」に分離していた。特に奥右筆は表右筆より一段上の位であり、将軍への文書取次ぎは側用人か奥右筆のみが行なうことになっており機密に絡むことが多く、幕府の重役といえどもこの奥右筆と対立することは其の地位に影響する恐れの職務であったといわれる。

 

奥田抱生墓

本堂の右側の中央あたりに三角形の形をした奥田抱生墓がある。

その墓碑には奥田抱生の一生を概略を漢文で書いたものである。
奥田は文政81010日(1825)年生まれ、儒学者奥田大観の子で名を一夫といい、字は式斎、別に主客説詩堂・飯沙山農・紫燕棲主人・百朋斎など多くの号がある。
文教家とか金石家という肩書きがあるがわかりにくいため調べてみると漢字・簿記・算術を修め、魚貝採集や書画骨董の収集し、漢詩漢文を教え、上京して牛込に住み読書・旅行・古器物の研究し、好古学の先駆者といわれる。著書には今瓦譜・百明斎今瓦・日本金石年表・明清書画名家年表・詩苑菁華・燕老随筆などがある。

墓の表面には以下の通りかかれている。

奥田抱生墓

奥田抱生墓

先君諱普字弐齋氏奥田抱生紫燕飯沙三山行者

等號大観先生長子幼承家學從曽祖鶯谷先生世為

尾張徳川氏奥御儒者明治元年藩命撰十少年就清

人金嘉穂學先君年甫十一亦入其撰弱冠任内閣屬

既而?之不復仕下帷教授明治四十三年都ト居

牛籠著有日本金石年表金石私記主客説詩堂集入

洛集昭和九年三月十一日病没距生萬延元年十一

月六日得壽七十有五  (一部表現できない漢字があります)

 

出羽(山形県)松山藩主酒井家の墓

そしてこの寺の一番の特徴は出羽(山形県)松山藩主酒井家の江戸における菩提寺であることである。本堂の正面に初代忠恒を始め歴代藩主一族の大きな墓が並んでいる。

松山藩は庄内藩(鶴岡藩)の分家の25000石支藩で現在の酒田市の藩である。

庄内藩というと藤沢周平の小説で昨年(2007)木村拓哉、壇れい主演でヒットした「武士の一分」などの舞台(映画では海坂藩)となっている場所である(「たそがれ清平」、「隠し剣 鬼の爪」等も同様である)。

都内の墓地でこれほどの藩主の墓が並んでいるのは珍しい。写真を撮るためにお昼休みを利用してくるのだが逆光でなかなかいい写真が撮れない。そのうち全ての墓の写真を紹介したいと思っている。

 

海ほうずき供養碑そのほかの話題(海ほうずみ供養塔
光照寺の鐘楼堂の右隣には大きな地蔵様が立っているがその間に「海ほうずき供養塔」があるこれは昭和16年に東京のほうずき業者が立てたものである。
私たちには「海ほうずき」というもは知らないが、これは大きな貝の卵のことで卵のまず袋に小さな切れ目を入れて、中身を洗い流し、きれいに乾かしてから口に含み、「ブーブー」と鳴らして遊ぶものだという。
昔は駄菓子屋や祭の夜店ではよく売られていたものらしい。
海ほうずきの歌もあるという。

ここはかなりの高台であり江戸の後期には天文台が置かれた事もあったという。

編集後記(2008.6.29)
週末は雨のためフリークライミングの施設に行きボルタリングやザイルをつけた人工壁登りに行ってきた。初めて夫婦で体験するフリークライミングはとてもスリリングで10メートルほどの人工の壁を上り確保したザイル(ロープ)に身をゆだねて降りてくる体験は緊張もすするがなかなか気持ちがよかった。おかげで筋肉が張ってなかなかタイピングするのが辛い。


HOMER’S玉手箱 麹町ウぉーカー(麹町遊歩人) 会津見て歩記 甲府勤番風流日誌 伊奈町見聞記 鹿児島県坊津町 Good Journey(よい旅を!)