気仙沼災害ボランティアレポート

(平成23年4月29日〜5月3日)

平成23年3月11日の東日本大震災の大惨事が発生し、何かをしないと先に一歩進めないとの思いから家族3人で気仙沼にボランティアに行ってきました。気仙沼に入ると映像で見るのと異なるその規模の大きさ悲惨さ壮絶さに絶句。
日本中から集まったボランティア達と傷ついた自宅を修復して立ち上がろうとする被災者の皆様にささやかなお手伝いをしてまいりました。家族三人、分散して別々のチームで活動し、できるだけ多くの被災者の方々へのお手伝いと触れ合いを目指しました。そして被災者から直接、津波の瞬間やそのあとの避難所での体験等話をお聞きしました。
時期のよってボランティアのニーズも異なってくると思いますが、平成23年GWはサバイバルの時期を過ぎて被災者の再建の時期になっており、残った家の片づけがメインになっていました。
お手伝いした被災者の皆様の笑顔に触れ、かえってボランティアの私達が沢山の勇気をもらったような気がしました。そしてボランティア活動は微力ではあるが無力ではないと気づかされた充実した日々でした。今後参加する人達の為に詳しく紹介します。
ボランティアセンターの光景 ボランティアの床下のドロ掻きの様子 ボランティアセンターの資材置き場
ボランティアセンターのマッチングの様子 床板を剥がし床下のドロ掻き 資材置き場
陸前高田の光景 焼け焦げた気仙沼港の漁船 南気仙沼小学校
何も残っていない陸前高田市中心部 焼け焦げた気仙沼の漁船 壊滅した南気仙沼小学校に「ありがとう 元気になれる まほうの言葉」と書いてあった。
日付 タ イ トル 活動内容 
平成23年4月20日 なぜ気仙沼市に? 最初、関東圏からのボランティアの入りにくい遠くの岩手県に入りたかったが、ボランティアに関するHPの情報が少なく、ほとんどの被災地で県外者のテント泊での参加を認めていなかった。これに比べ、宮城県のボランティアに関するHPは比較的充実しており、自己完結型のテント泊や車中泊での参加を認めていた。
そこでそれに仙台市から高速道路でのアクセスが便利な東松島市や石巻市辺りはボランティアが入りやすく、多くの参加者が見込めるため(実際GWには沢山のボランティアが集まり多くのボランティアが活動できなかったと聞いた。)、比較的アクセスの困難な岩手県との県境の気仙沼市に決定した。
平成23年4月21日 気仙沼ボランティアセンター(VC)に照会 988-0066 宮城県気仙沼市東新城2-2-1 気仙沼市民健康管理センター「すこやか」内のVC(080-5949-7475)に架電。VCの回答は以下のとおりである。
・GWには多くのボランティアが入る可能性があり、受付をしてからマッチング、手配まで時間がかかる可能性があるのでご理解願いたい。
・テント場はVCの隣にある。(宿は各自手配)
・スコップなど足りなくなる可能性があるので持参できればもってきてほしい。
・居住する町の社会福祉協議会保険をかけてきてほしい。
平成23年4月22日 ボランティア保険 ・住んでいる埼玉県、伊奈町社会保険協議会でボランティア保険に入る。
 天災A(490円)と天災B(720円)がある。いずれも加入してから翌年の3月31日まで。ピ  ンクの保険カードをカード入れに入れて持参する。
・活動中に自分が怪我をしたときや活動中に人の物を壊して損害を与えた時などに適用され る。現地まで移動中の車の事故は対象外だとのこと。
平成23年4月23日 病院 伊奈町のかかりつけ内田医院の先生に気仙沼に行くと話したら、被災地は空気が悪いため通常のマスクではな、口と鼻を完全に覆う防塵マスクを使うようにアドバイスを受ける。
平成23年4月24日〜27日まで 準備 夫婦と息子が5日間、テントで過ごすため山岳用のテント2張り、5日分の食糧、水、衣類、アマチュア無線3セット、20Lのガソリン、保険証等を準備する。登山用のガスバーナーはサブ用にしてメインはカセットガスコンロを使用した。これは安定して使いやすい。
山とは異なり車で入れるため軽量化の必要がなく、沢山の物を持ち込んでしまった。
ボランティア活動で必要なものは軍手・耐油グローブ、防塵マスク、ゴーグル・メガネ(防塵)、長袖・長ズボン、活動しやすい靴(長靴・安全靴・釘踏み抜き防止用中敷きのある靴)、レインウエアー、帽子、、タオル、等・・暑くなると虫よけなども必要です。
平成23年4月28日 出発 仕事を終え、8時30分に家を出発する。東北道ははとても混雑しており、SA,PSも混雑しており夜中もスピードを出すことができなかった。毎年のように秋田帰っているがこれほど車の多い東北道は初めてであった。
福島県に入ると震災の影響で高速道路の路面がとても傷ついており、補修しても振動が激しく走行には注意が必要。
平成23年4月29日 活動1日目(写真) 6時20分 一関ICから国道284号線(気仙沼街道)を走り気仙沼市役所を過ぎるとそこから先は被災地。
気仙沼の港に到着すると陸に乗り上げた船や焼け焦げた船。そして倒壊して何もなくなった町並みにテレビに映し出された映像よりはるかに規模が大きくフレームに収まりきれない被害の大きさに驚く。そこにはテレビでは伝わらない焼け焦げたにおいと海水と魚の腐ったような臭いが周りを覆いつくしていた(これから先暑くなったら臭いとハエなどが大変なことになるだろう)。
気仙沼海沿いの被災状況(写真)

8時30分CVで受け付け開始。
ボランティア登録をする。ボランティ保険の加入の有無を確認される。
青いガムテープに名前を書いて腕に貼られる。
活動は9時から原則3時作業終了(昼休みに1時間に10分ほどの休息)
作業の多くは家の残った被災者の家の家具の移動や掃除、床板を剥がし床下にたまったドロ(ヘドロ)の掻き出し、庭や家の周りのガレキや溝のドロの除去。その他商店の片づけ、皿洗い。ボランティアセンターのマッチングの様子
仕分けの仕事はほとんどありませんでした。
VCセンター内で被災者のニーズに対して必要な人員を募集(マッチング)し、リーダーを選出し(赤い気仙沼社会福祉協議会のスタッフジャンパーを着る)、資材センターで必要な資材を受け取り、配送スタッフにより現場に配送される(そして作業終了後、車で回収される)。

HOMER:男性6名で床板を剥がして、床下のヘドロを除去並びに庭の泥の除去。
Mrs.H:女性3名。震災で住む家を離れ、古い家に移ることになった82歳の高齢女性の自宅の掃除。
Shin:男性5名ガレキを車で搬出・泥の除去。


電話では宿泊場所はVCの隣の公園という話であったが、GWは駐車場の確保ができないため、VCから30分ほどのキャンプ場などに移された。旧月立小学校、望洋平キャンプ場、漁火パーク、御崎野営場など。
センター脇の公園は駐車場とされていたが、そこにはモンゴル人が設置したという大きな2棟のパオが設置されており、宿のないボランティアの宿泊に利用されていた。しかし、野営経験のない人たちにはパオの中で寝るのは寒いらしくみな去っていった。
私たちはVCから約21kmほどある唐桑半島の突端、御崎(おさき)野営場に向かう。野営場は岬の突端ではあるが、落葉松林の中で風も当らず、水場にトイレ、温水シャワーもある快適なサイト。ボランティアの活動証明があると無料になる。唐桑半島の様子(写真)
隣に国民宿舎からくは荘があり温泉があり、ボランティアにはお風呂を使わせてくれるという情報であったが、4時までしか使わせてもらえず、明らかに迷惑そうな応対だったため以後利用するのをやめた(隣にテントを張った富山の氷見から来た若者たちも、宿泊のお客が来るようになってお風呂をボランティに使ってもらうのはあからさまに迷惑そうなことを言われたから翌日から使うのをやめるといっていた。)
平成23年4月30日 活動2日目(写真) 朝:御崎野営場から約20km走り陸前高田市に向かう。建物が病院以外は何もない一面の被災地に規模の大きさに言葉を失う。息子が「じゅうたん爆撃でもここまではならないね。」に納得。
陸前高田の被災状況(写真)

HOMER:男性10名女性1名で床のフローリングの掃除と消毒並びに庭に堆積したヘドロの除去。そして玄関周りの掃除。家の壁に残る津波の痕跡をすべて消し去ったら大変喜んでくれた。作業用の資材を受け取り現場に向かう。
Mrs.H:石材屋さんを経営する家主の大きな屋敷の片づけ。
Shin:男性11名で街中のスナック兼住居のドロ掻き

この日、私のチームの2人の若者が昼食の準備をしてこなかったため持ってきたおにぎりを1個づつわけてやった。コンビニで買えると思っていたという。私は予備のソイジョイ1個で済ます。

この日、本郷地区に向かう2つのグループの資材を軽トラック1台に山と積み込みそれを固定するために通常「トラック結び」(ワゴナーズ・ヒッチ)を管理者が何気なくやったところ、皆さんが「手馴れていますね。」との掛け声。子供のころ4つ違いの妹と2トントラックに枕崎の鰹節を作る薪を積みそれを子供だけで締めていました。

夜:国民宿舎からさわ荘の温泉に行くのをやめ温水シャワーにする。とても快適。
野営場管理人さんはボランティアに来てくれたことをとても感謝してくれておりありがたかった。
平成23年5月1日 活動3日目(写真) 朝:御崎の海岸沿いを一回りして御崎神社に参拝する。途中タラの芽を見つけたため夕食用に少しいただく。

HOMER:男性3人で庭先の畑と家の周りに砂利、ヘドロの除去と新しい砂利を敷く。都民ボランティアが男女6名応援に入ってくれて、当初の計画よりより1日早く完了した。
Mrs.H:瀬戸物屋さんの泥をかぶった皿の水洗い。
Shin:男性10人でサティー裏の民家のドロ掻き。

気仙沼大橋のたもとに流れるいた家
夜:野営場に島根県の救援物資を女川病院に運んできたトラックの運転手と長野県高遠町からボランティアとして参加している男性、初日から隣にテントを張っている富山県氷見市から来た若者三人組と楽しい語らいのひと時を過ごす。鳥取県でダイビングスーツを製造しているらしい豪快な方で、海に潜りユニックを使ってカキのイカダを引き上げるといっていた。
朝海岸沿いで採ったタラの芽のてんぷらを作った。
ダイビングスーツの素材で作った携帯電話ケースをいただいた。
平成23年5月2日 活動4日目(写真) 朝:コインランドリーを探して汚れ物の洗濯。(3ヶ所ほど見つけました)
強風のためボランティアたちが野営している唐桑半島の漁火パークのテントが数張り飛ばされたという。
山となったガレキとゴミを整理して道路に並べる。
HOMER:男性11名。この日初めてリーダーを拝命。気仙沼警察署そばの食堂の私有地に集められ山となったガレキを公道に並べる作業(私有地内のごみは市が収集してくれない)。しかしこの日、東北地方は強風でお昼に美味しい具沢山の味噌汁(ベコ汁?)を頂いているときに作業中止の電話が入る。しかし、これだけしていただきながらすぐに帰るのは申し訳ないとのことでメンバー全員合意の上、食事を早急に切り上げて、休まずに迎えの車が来るまでの間、精一杯残りの作業を行った。それを見ていた他のチームも作業を再開した。
この家は3台の車を流され、やっと軽乗用車を買ったが11万キロ以上走っているにもかかわらずなんと35万円だったとのこと(普通なら廃車ですよ・・)。
Mrs.H:男女12名。72歳ご夫婦の家の掃除と、男性はドロ掻き
Shin:唐桑半島の海岸わき民家の家具移動とドロ掻き。バールを使った箪笥のこじ開けての衣類の取り出し等。


夜:帰りに唐桑半島の巨釜、半造の折石の奇岩を観光して帰る。駐車場には日本勤労山岳連盟や栃木県の連盟の災害支援活動BCとなっていた。BC(ベースキャンプ)とするあたりが登山家の集団らしい。
この夜、野営場で翌日、陸前高田に歩いていくというバックパッカーと出会い、高田の状況を話すと「橋を渡れないのであれば地元の人に船で渡してもらうといいですね。」とのこと。現状を知らない物見遊山の発言に怒りを覚える。
平成23年5月3日 活動5日目(写真) 朝:気仙沼港の北岸の火災の出た地区と大島の対岸の浦島まで向かう。
急な崖の前の狭い敷地に建てられた家はすべて流され焼け焦げていた。そして、路上にSOSと書かれているのが残っていた。

HOMER:男女15人で床板の剥がされた家の床下のドロ掻きと壁、床の掃除。
Mrs.H:男女12名で破棄する家財の搬出と、ドロ掻き、衣類の洗濯。
Shin:高齢者1人住まいの家財出し、ドロ掻き。(83歳の女性で津波と火災を避けるため急な竹藪の崖を駆け上り、前の海が2日間燃えており2日めに救助されたという。)

帰り:VCでボランティアセンターで配られていた、「Kizuna Candy」には「ありがとうのきもち 気仙沼の力になってくれてありがとうございました。」と書かれておりけせんぬまし観光キャラクター「海の子ほーやぼーや」の金太郎飴を一つ頂いて帰路についた。
一関市大東町ふるさと分校まきばの湯に入り。一関市大東町を経由して岐路を急ぐ。長者原で久しぶりのご馳走をいただく。そして操業を再開したばかりの大船渡の名物「カモメの卵」を会社へのお土産と母の日のプレゼント用に買って帰る。
高速では習志野の空挺団部隊の車列と一緒だった。わが国で唯一の落下傘部隊である。
平成23年5月4日 帰宅 朝2時55分 埼玉の自宅に到着  
(初めて震災ボランティアに参加して)
情報収集 宮城県災害ボランティアセンターのホームページに各自治体ごとにセンターと活動のニーズが紹介されている。
GWは参加者が増えることが予想されたため、期間中の新規募集が中止されたが、事前に確認していくことが望ましい。
気仙沼市災害ボランティアセンター(VC) 988-0066 宮城県気仙沼市東新城2-2-1 気仙沼市民健康管理センター「すこやか」内のVC(080-5949-7475 0226-22-0722)
気仙沼駅から約1.3km(徒歩約15分) 一関駅から気仙沼駅まで大船渡線で約1時間30分
医療ボランティアチームと同じ場所にあるが、施設の中は医療チームとボランティアの送迎車は資材搬送用のトラック用の駐車場であり、ボランティアは隣にある空き地に止める。そこが車中泊でボランティアをする人達用の駐車場でもある。
活動の種類 震災から2ヶ月経ったこの時期は被災した我が家に戻ってそこで生活を再建しようとする被災者の家の片づけであった。家の回りや床下のヘドロの掻き出し、家の掃除、ガレキの除去、食器洗い等であった。
民家だけでなく商店の商品の片づけにも参加していた。
ボランティアの活動 最低、長靴(または安全靴)と厚手のゴム手袋、防塵マスクは必需品。防塵ゴーグルと防塵マスク釘の踏み抜き防止の中敷き(セーフティーソール)も必要です(ワークマン等で購入できます。)。
ゴーグル、長靴、釘踏み抜き防止の金属製の中敷き、ゴム手袋は貸し出してもらえました(この手袋をまたきれいに洗って貸し出してくれています。)
グループのリーダーになると現場で怪我をしたとき傷口を洗浄する浄水のペットボトルを本部から渡されました。一番怖いのは釘の踏み抜きやガラスの切り傷による破傷風だと説明を受けました。(6月頃からは救護セットが渡されるようになったようです。)破傷風は傷口から感染するがそれも気づかないような小さな切り傷から感染しているという。潜伏期間は3日から3週間だという。肩が凝り、口がきけなくなるの症状が出て、喉が締り硬直し、筋肉が硬直していくという。死亡率は約50%だというからヘドロの除去等のボランティア活動にあたっては軽く考えずに切り傷や釘の踏み抜きには万全の注意したい。そして怪我をしたらすぐにリーダーに報告し、センターで治療を受けるこことです。
作業用のスコップや一輪車等の道具はVCに沢山あります。作業の応じて持っていきます。
活動地域にはコンビニはありませんから弁当と水は必ず持参する。弁当の衛生管理にも注意が必要で、暑いときには熱中症にならないように水だけでなくポカリスエットなどスポーツ飲料も必要です。
トイレもないところもありますが、近くで借りたりします。(Mrs.H達は軽トラックで近くの自衛隊の重機置き場まで行きトイレを借りることもありました。)
頑張り過ぎないこと。1日で終わらなくてもいいのです。終わらない分はリーダーがVC本部への報告で継続の希望ありと報告すれば、VCから依頼者に対して作業継続希望の確認が行われます。とくにパワフルなリーダーにあたると大変なことになります。リーダーになる人も自分にできても多くのボランティアは慣れない作業に従事していることの理解は必要です。そして少しずつ継続して続けることが重要で、何よりケガをしないように行うことが必要です。
ボランティアに参加していた人々 GWは沢山のボランティアが参加することが予想されたが思ったほど参加者が多くはなかった。全国からまた世界中から参加してくれていた。
グループ参加としては都民ボランティアで東京都で募集され、一関市に宿泊施設を確保して毎日バスでセンターに通ってきていた。京都府のボランティアもいた。(宿と食事が保障されるボランティア形態であり衣食住を自己完結できない人々にはいいシステムである。被災地支援を目指す自治体や団体にはこの形態をぜひ検討してほしい。ボランティアのすそ野が広がります。)
都民ボランティアはVCのマッチングの下にはなく自ら町にに出て各家を回りながら御用聞きをするようにニーズを探し出して1グループ男女5から6名で活動を行っていた。
三重県からご夫婦で参加したボランティアは被災者で家に戻っている方々が野菜が入手しにくいとの情報を得て野菜を持って来て、配布したのち夫婦で何日も車中泊をしながらドロ掻きをしていた。
とても愉快で特殊技能(?)を持った東京都の玉川学園の南小谷おじさん隊。玉川学園の防災用の赤いバケツを出してきた。玉川学園の創設者小原圀芳先生は私の故郷鹿児島県南さつま市坊津町久志の出身であるため「坊津の久志をご存知ですか?」というと当然知っていた。気仙沼に来て坊津町久志という超ローカルな地名を知っている人たちがいたのにびっくりした。(南さつま市坊津町をお楽しみください。)
因みに玉川学園の正門わきに掲げられたモットーは「人生の最も苦しいいやなつらい損な場面を真っ先きに微笑みを以て担当せよ 」である。
気仙沼の実家の流された被災者の若い女性も参加しており、彼女の安否を心配してカナダからやって来てボランティアに参加している男性もいた。気仙沼の高台から燃えさかる異様な光景の中彼に電話したらしい。スーパーで彼を見かけ「ヘイ カール!」と声をかけるとはにかみながら手を振って応えてくれた。
日本語ペラペラの愉快なカナダ人とアメリカ人の青いつなぎを着た元気な男性ペアもいた。
アメリカのある小さな町が震災のために募金を集め、そのお金を旅費として選抜され、参加したという南部のカーボーイ風の若い男性。言葉もわからない中、みんなと仲良く活動していた。皆「うちの町で彼のように募金で言葉の外国の被災地に行って来いと言われたら行けないな。アメリカ人はすごいな。」と言っていましたが、何より「お金より少なくとも人で貢献する」というアメリカ人の気質は素晴らしいなと語り合いました。(気仙沼市の大島には米海軍強襲揚陸艦「エセックス」の海兵隊が支援に来てくましたが、軍隊だけでなく遠い国の小さな町もこのように私達の国に人を派遣してくれていたことを紹介します。)
若い女性のグループ。出発した時はとても元気な彼女達も帰りは初めて行う泥との格闘にへとへとになっていた。しかし、とても充実した笑顔の綺麗な女性たちだった。
池袋から日帰りでバスでボランティアにやってきた若い女性。どうしてもボランティアに参加したくてやってきたという。すごい。(家の片づけやドロ掻きの現場は女性は役に立たないのでは?と思われる方もいると思います。ただ男たちがスコップでドロを掘り起こしてもそれを入れる土嚢袋はは自立しませんのでそれを口をあけて手伝ってくれる人が必要なのです。(半人前という土嚢袋を自立させる金属製の道具がありますが数が足りません。)力仕事は男がやりますが、現場は泥掻きだけでなく女性の手の必要な作業もたくさんあります。心のこもった作業を円滑に行うには男女の共同が必要です。)
関東のライバル会社の男女の若者たちが集ってやってきたメンバーもいた。皆輝いていた。
静岡からバイクに5Lのガソリンに水、食料を積み込んでやってきていた男性。定年まであと2年だといっていたがパワフルなライダーボランティアだった。
実家が一関市だが現在、宇都宮に住んでおり、休みに帰省し、電車で気仙沼駅まで通ってきて参加していた男性。誠実にリーダーを務めていた。いい男だった。
札幌市で震災の支援物資の仕分けのボランティアをやった仲間が集まり気仙沼にやてきたという男女6名のグループ。月立小学校で野営をしながら頑張っていた愉快な仲間たちだった。
航空自衛隊のキャップをつけていたため聞いたら、元航空自衛官で予備役であるが今回予備役招集がなかったのでやってきたという。
気仙沼に実家がある女性は、家に帰ると迷惑になるとして近くのキャンプ場にロッジを借りてそこから通っていた。それまでアウトドアの経験のなかった彼女はボランティアを行うために沢山の用具をそろえてやってきたという。テントまで買おうとしたが「そこまでは・・」と、止められたという。

御崎野営場で一緒になったボランティア達。
長野県高遠町から軽トラックで参加した男性は長期間参加し自ら持ってきた軽トラックも作業に提供し、資材の搬送役立てていた。テントが年代物のエスパースで入り口に冬山用の吹き流しを鳥取県の隼駅の携帯ケースつけていた。山やとしては只者ではない様子。
鳥取県の災害支援物資を女川病院にユニックのトラックで運んできた鳥取で潜水服を製造しているという男性からウエットスーツで作った携帯電話ケースを頂いた。そのケースは鳥取の若桜鉄道の隼駅がデザインされており、スズキの大型バイク「GSX1300R隼:hayabusa」オーナーが集まる駅として近年脚光を浴びているという。この後沈んだカキの筏を上げる作業に向かうと言っていた。
初日から一緒になった富山県氷見市から来た3人の若者たち。同じ年の3人でやってきて毎日ライスパックをカセットコンロで温め、カレーを食べていた。
「氷見のブランドブリ」ならぬリーダーのタケシ君以下3名の若者のことは一生忘れません。ここまでやってきた君らが氷見の誇りだ!
ボランティア達の生活 自治体が募集するボランティア達は被災のない近隣の町(一関市等)に宿を確保してくれるので参加しやすいようである。
野営できないボランティアは近隣のキャンプ場のロッジを借りて生活したり、近くの町に宿をとって通ってくるメンバーもいた。
車中泊で何日間も活動を続けボランティアも多かった。車中泊はバンの様な車でなくてもセダンでもシートを水平にして凸凹をなくすと寝るのに支障はない。皆さん色々と工夫していた。
テント場もGW期間中はVCの脇の空き地を駐車場にするため使えず、VCから30から40分ほどかかる郊外のキャンプ場に野営場が準備された。多くのボランティアが旧月立小学校や唐桑半島の中央部にある漁火パークのテント場を選択していた。
私たちはそれよさらに遠い唐桑半島の突端にある遠い松林の御崎野営場を選択。長期の野営の場合は展望よりも風が避けられる日陰のある場所がいい。実際、5月1日の東北地方の強風で沢山のテントが飛ばされた。
旧月立小学校で野営するボランティアには地域の人々により提供されたプロパンガスが自由に使えたり、ゴールデン期間中手打ちそばの振る舞いもあったという。
VCが準備した野営場にはお風呂などはないところが多く、多くのボランティアたちは気仙沼駅前「駒の湯」を利用していた。かなり混雑します。一人10分ほどしか使えなかったと聞きました。ただ、被災を受けてない内陸の地区まで車で移動すれば温泉(室根高原まきばの湯等)もあり利用することもできます。
御崎野営場は遠いが温水シャワーがあってとても快適でした。
・長期の場合は汚れ物の洗濯の問題もありますが、気仙沼市内にはコインランドリーが数か所利用出来ました。イオンの路向かいの浜街道沿いと田中前の条南中学校の傍にありました。
テントは山用のテントか2から3名用の小型のテントがいい。テント場も狭く大きなオートキャンプ用のロッジテントは好ましくないと思います。ただ、狭いテントの場合、雨の日もあり狭い場所ですべてのことをこなすテント泊の登山で求められる衣食住の全てをコンパクトにこなす生活技術は必要になります。
3月のボランティアは冬山の経験者でないと厳しいものであったと思われます。暑い夏場は広いテントがいいかもしれません。
我が家は山岳用テント2張り、食料1週間分、雨具、長靴、防塵マスク、防塵ゴーグル、レインウエアー、水10L、ガソリン20L、アマチュア無線機3セット(全員ハムですから)等完全装備で向かった。
しかし、気仙沼の被災地の海岸沿いを除き高台の街はコンビニもスーパーも開いており、VCのスタッフから「可能な限り気仙沼にお金を落としていってください(物を買ってください)。」という言葉に従て、可能な限り町の物を買いました。
また各作業現場の依頼者の家主さんたちから被災者として大変な中、私達ボランティアにペットボトルの飲料水や栄養ドリンク、おにぎり、みそ汁など温かいもてなしをして頂き本当にありがとうございました。ボランティアの皆、恐縮しておりました。
被災地の多くの方々からボランティアである私達に「遠くからやってきてくれて有難う。」の言葉をかけられました。それに、作業が終わるころには被災した当時のこと等かなり詳しく話していただきました。私達には返す言葉もない壮絶な体験でしたが、それを私たちに話すことができるようになったという笑顔に救われました。私を含め皆「ボランティア活動に参加させていただき、皆様の笑顔に触れることができ、こちらこそ有難うございました。」という気持ちだったと思います。本当に有難うございました。

帰ってきて 帰ってきて友人達にグループごとに「気仙沼に行ってきました」と題するレポートのメールを送りました。すると皆、「お疲れ様・有難う」の言葉の後に各自の震災に対する思いや気持ちを綴った返信メールをくれました。みな、何かをしたいにもかかわらず何もできない無力さを綴っていましたが、普段は語ることのない優しさや思いやりに満ちたものでした。
特に、4月に病に倒れた友人が、「H氏が行ってくれて気持ちが楽になりました。有難うございました。」とありました。仲間の一人のボランティア参加が、友人たちが震災で胸に抱えた忸怩たる思いを、少し癒すのではのではないかではないかと感じさせられました。皆が語ってくれたこの優しさあ思いやりは直接ボランティアに参加することと同様に大きな被害を受けた日本を支える大きな力だと思いました。
帰ってきて、被災地でかけられた「ありがとう」の言葉と共にとてもうれしい有難うの言葉でした。
私はこのボランティアにJAICOの日本橋教室の産業カウンセラーの実習を1日休んで参加したがカウンセラー(現在)として傾聴するすることによる癒しの効果を実体験することができのちの研修にもとても役に立った。

ボランティア活動は微力ではあるが決して無力ではない。それが集まると大きな力になります。

可能な範囲で少しずつ小さな力を被災地に届けたいものです。

(平成23年5月5日掲載)

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Good Journey(よい旅を!)