戻る

会津見て歩記(会津若松市編)
(A4で30ページほどありますのでご容赦ください。)

会津若松に転勤して来て、この会津は私と家族にとっては間違いなく特別な場所になった。この会津をある意味ではここに住んでいる人達以上に愛し、拘りをもって見てきたと思う。そこで、今までに見聞きしたことの記憶を辿りながら書きとめてみたいと思う。まずおことわりしておくが拘りが多すぎて、取り止めのないものになり膨大な量になりそうである。ただ会津を楽しむためのキーワードは「歴史との対話」でありこれなしには空虚なものになってしまうと考える。


(飯盛山)

 会津を語るにはまず、「飯盛山」について書き始める以外にないし、又あらゆる意味で正しいと思う。

 飯盛山はJR磐越西線会津若松駅の東約1.5キロのところにある標高360メートルほどの小高い丘である。会津盆地の東を南北に走る背炙(セアブリ)山地の里山の一つである。

この飯盛山は、「白虎隊自刃の地」として歴史に現れ、悲劇的英雄達とともに国民に広く知られるところとなっている。

 白虎隊は戊辰戦争の終わりに、押し寄せる西軍(官軍=会津では自らは賊軍であるという認識がないため、薩摩・長州を筆頭とする西南諸藩が幕藩体制を倒すための戦争だったとしてそれらを西軍といっている。)を迎え撃つために、飯盛山の北側にある会津藩の本陣(滝沢本陣)を猪苗代方面に出撃し、猪苗代湖から流れ出る日橋川(ニッパシガワ)に架かる十六橋の守備に回ったのであるが、戸の口の戦いで怒涛のごとく押し寄せる西軍の前に武運尽き、敗走して帰ってきたのがこの飯盛山である。

 会津に訪れて、飯盛山、鶴ヶ城を尋ねるためには車、電車で来てもバスを使っても決して迷うことはない。この両方の案内板は町中にあり必ず分るようになっている。「会津の道(案内板)は飯盛山と鶴ヶ城につながっている。」である。

 飯盛山の参道の階段は道路からは171段あり、その脇を有料のスロープコンベアー(歩道)がある。階段を登り終えるとそこはテニスコート2面程の広場に出る。広場より一段高くなった大きな石灯籠の奥には自刃した19基の白虎隊士の墓が並んでおり中央の焼香台には線香の煙の絶えることはない。

 その右脇には戦死した31基の白虎隊士の墓が少し寂しく並んでいる。この墓の中には14歳の少年の墓もある。

 白虎隊士の墓の左側には彼等が殉じた君主、第9代松平容保(カタモリ)公の哀悼の碑が建っている。それには「幾人(イクタリ)の涙は石にそそぐとも、その名は世々に朽ちじとぞ思う」とある。その名は「松平」ではなく「源容保」とある。松平家は清和源氏の末裔でということか。後に述べるが、会津にきて容保公と蒲生氏郷公の歌には本物の武士の教養を感じさせられるものがある。

 白虎隊の墓をあとにして広場に出ると山際には観音像と黒い御影石に「詩吟白虎隊」の彫られた碑があり、右正面に